下鈎遺跡の大型建物
伊勢遺跡の南西、約1.2kmの所に下鈎遺跡があります。弥生時代中期に環濠集落が形成されますが、後期の初めには解体し、周辺へ分散します。
後期後半には再び大型建物を築造し、青銅器生産を行う集落として出現します。 この時期は、伊勢遺跡と共に野洲川下流域の「クニ」の中核を占める集落となっていたようです。
後期後半には再び大型建物を築造し、青銅器生産を行う集落として出現します。 この時期は、伊勢遺跡と共に野洲川下流域の「クニ」の中核を占める集落となっていたようです。
下鈎遺跡はこんな遺跡
【遺跡の概要】
中期の環濠集落が一度衰退した後、弥生時代後期に少し離れたところで再度栄えます。遺跡の範囲は少し重なっており、両時期ともに、大きな川が集落の中を流れています。
下鈎理遺跡全景 (栗東市発掘調査報告書より作成) |
弥生時代中期の集落
環濠の規模は東西方向が約410m、南北方向が約370mの大きさで一重の環濠です。環濠内部の一部で竪穴住居や小型の掘建柱建物が10棟ほど見つかっています。同時期に栄えた下之郷遺跡のような大型建物は見つかっていません。ただ通常の弥生集落に比べるとユニークな点がいくつかあります。
・未製品の銅鏃が1点出土
・日本最小の小型銅鐸が出土
・導水施設がある。古墳時代の導水施設より小規模場ながら形が整っている
・日本最小の小型銅鐸が出土
・導水施設がある。古墳時代の導水施設より小規模場ながら形が整っている
弥生時代後期の集落
中期の集落が衰退したのち百数十年経って、中期集落に接するようにに、突如として出現します。伊勢遺跡が現れてしばらくしてからの時期にあたります。
伊勢遺跡とは中心間距離で約1.2kmしか離れておらず、隣接とは言えないしても「お隣さん」ともみなせる位置です。
そんなに近い所で、伊勢遺跡の独立棟持柱建物(祭殿)とほぼ同じ規模の独立棟持柱建物が数棟建てられます。互いに見渡せる距離での「同時進行での建設」と言ってもいいでしょう。
祭殿が見られるのは北地区と南地区に分かれていて、祭祀の対象が違っていたと推定しています。
【下鈎遺跡の特徴】
弥生後期の集落の特徴を説明します。集落の中を大きな川が流れている
地形から考えると、中期、後期ともに、大きな川が集落の中央を流れていて、びわ湖水運〜川の水運を担っていたようです。ここが陸運との接点となり、荷物の積替え拠点となっていたようです。後期の集落も積替え拠点として活躍していたようです。
最先端技術の生産拠点でもあった
伊勢遺跡の祭祀域は人の気配がなく、出土物もほとんどありません。一方、下鈎遺跡ではいろいろな出土物が出てきます。青銅製品やその未製品、鋳造するときに生じる銅の飛沫やしずく、鋳造関連部品など、青銅器生産にまつわる物が種々出てきています。
また、祭祀に用いられる水銀朱の生成のために必要な石杵(いしきね)が複数個出ています。
当時としては、最先端の製品(銅製品、水銀朱)の生産拠点であったようです。
伊勢遺跡と連携しながらも独自性を発揮
伊勢遺跡も大きな祭祀空間を持ち、下鈎遺跡も後述するように数棟の祭殿をもって祭祀を行っていました。遺跡の様相から判断して、祭祀の対象は違っていたと考えられますが、独立棟持柱建物の規模はほぼ同じです。でも細かく見ると、建物の構造や大きさにバラツキがあり伊勢遺跡ほど揃っていません。
伊勢遺跡の祭殿を目の当たりにしながら、全くのコピーではなく独自性を出しています。
【弥生後期の大型建物】
集落内の建物配置を示します。 大きくは3つの区域に分かれます。
・北の祭祀域
祭祀域には一般の竪穴住居はありません。
・南の祭祀域 ・その中間点の居住域 下鈎遺跡の大型建物 (栗東市発掘調査報告書より作成) |
南の祭祀域の建物
南側の祭祀域には祭殿2棟と東端に大きな掘立柱建物(建物3)があります。この建物は、祭殿とセットで機能していた建物と考えられています。
南祭祀域の大型建物
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下鈎遺跡想像図(イラスト:雨森智美) |
【建物1(祭殿)】
建物は、まず布掘りと呼ばれる細長い溝を掘ってその後柱穴を掘る構築方法がとられています。伊勢遺跡では見られなかった構築方法ですが、後述する下長遺跡では、一部にこの方法が採用されています。大型建物を同時並行して建造するには大勢の工人グループがいたはずで、工人のグループによって建築方法が違ったのでしょう。
下鈎遺跡建物1 平面図と復元想像図(栗東市発掘調査報告書より作成) |
布掘りの穴には柱を立てる際に落とし込みやすくするために設けた傾斜面(斜路)を設けています。長くて太い柱を立てるための工夫で、この建物が大きかった証拠でもあります。太くて長い柱を斜めに挿入して立てる方法は伊勢遺跡と同じです。
伊勢遺跡の祭殿との大きな違いは「心柱」がないことです。
柱穴には9本のヒノキ材の柱根が残されており、残りの良いものは直径が約37cmでした。その内の1本は年輪年代法により、西暦69年の年代と判定されました。
SB-1 布堀の柱穴 |
SB-1 残されていた柱根 |
下鈎遺跡SB-1 布堀柱穴と残されていた柱根(写真:栗東市教育委員会) |
【建物2(祭殿)】
地面に直接柱穴を掘って柱を入れ込む方法で建てられています。柱根は残されていませんでしたが、柱穴は80cmから1.2mの楕円形で、太くて長い柱を立てるための斜路が設けてあります。柱穴から推定すると、側柱が40〜45cmと太い柱で、棟持柱は30〜35cmと考えられます。
建物横の柱穴の配置から推定するとテラスがあったようです。伊勢遺跡でも1棟の祭殿にテラスが設けてあり、関連性が伺われます。
しかし、建物1と同様、心柱は見当たりません。
下鈎遺跡建物2 平面図と復元想像図(栗東市発掘調査報告書より作成) |
【建物3(副屋)】
建物3は建物2の東側10数mの直ぐ近くに位置し、建物2とは直角方向に建てられていました(L字配置)。発掘範囲外に広がっているため、大きさは分かりませんが、柱穴が小さく間隔も広いため平地式の建物と推定されています。伊勢遺跡でも、方形区画内の主殿とL字配置されている平地式建物があります。主殿に寄り添う副屋と考えられており、奇しくも下鈎遺跡の建物2と建物3の関係によく似ています。
下鈎遺跡建物3 復元想像図 (CG:小谷正澄) |
下鈎遺跡 建物3の平面図(栗東市発掘調査報告書より作成) |
祭祀域を区画溝と柵を用いて区切るやり方は、伊勢遺跡でも見られています。祭祀域の在り方について共通する認識があったようです。
北の祭祀域の建物
北部の祭祀区には祭殿(建物4)と中型の独立棟持柱建物(建物5)があり、祭祀に関わる建物と見られています。
北部祭祀域では、川が円弧を描いて流れており、その内側には大きい溝が掘られています。溝は途中で途切れており、そこが出入口となっていたようです。
この近くに、竪穴建物が1棟だけ見つかりました。青銅器生産に関わる可能性のある建物です。
この建物配置から考えると西側にさらに祭祀域が広がっており、何らかの施設があったと考えられます。
南祭祀域の大型建物
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下鈎遺跡 北の祭祀域 (栗東市発掘調査報告書より作成) |
【建物4(祭殿)】
遺構の北部にある建物跡で、後世の川によって片側の柱穴列が壊されて残っていません。
下鈎遺跡建物4 平面図 (栗東市発掘調査報告書より作成) |
建物の中央部や反対側の柱穴列がないので独立した棟持柱があったのか分かりませんが、布掘り方式で柱穴の構造が建物1とよく似ており、独立棟持柱建物と考えられています。
建物1より桁行が長いので、同じ構造の独立棟持柱建物であったとしたら、一回り大きな建物であったと推測されます。
【建物5(祭殿)】
北の祭祀域の西端に独立棟持柱建物と推定される建物の柱穴が見つかりました。多くが調査範囲外のため大きさが分からないのですが、柱穴から推定される柱の太さは20〜25cmで建物2より細くなっており、小ぶりの独立棟持柱建物と思われます。
下鈎遺跡建物5 平面図 (栗東市発掘調査報告書より作成) |
下鈎遺跡建物5復元想像図 (CG:小谷正澄) |
【大型竪穴建物】
ここで注目されるのは、大型竪穴建物です。この地域には掘立柱建物しか見つかっておらず、唯一の竪穴建物が、大溝で囲まれた内部に見つかっています。隣接して中型独立棟持柱建物が建っていることから考えて、この竪穴建物は祭祀に関する目的で建てられた施設と考えられます。
伊勢遺跡の独立棟持柱建物(祭殿)との比較
上でも述べましたが、伊勢遺跡と下鈎遺跡では同時期に独立棟持柱建物の建設が行われていたと考えられます。
池上曾根遺跡や唐古・鍵遺跡の独立棟持柱建物と比べると、伊勢と下鈎の建物はよく似た形状とサイズの建物です。しかし、よく見ると、いろいろな点で違いがあり、何によって仕様が決まるのか興味深い点です。
項目 | 伊勢遺跡 | 下鈎遺跡 |
柱構造 | 5×1間×6棟 全て梁行1間 | 5×2間、4×2間 全て梁行2間 |
梁行の長さ | 4.5〜5m | 5m、5.5m やや大きい |
桁行の長さ | 8.6〜9.1m | 7.6m、8.8m、(10.5m) バラツキ大きい |
心柱 | あり | なし |
柱建て工事 | 布堀構築なし 斜路あり | 布堀構築あり 斜路あり |
テラス付き | あり | あり |
伊勢遺跡の祭殿との大きな違いは「心柱」がないことです。
祭殿自体が持つ「祭祀場」の意味の他に「心柱」が表す「神聖性」のようなものが考えられますが、伊勢遺跡にはあって、下鈎遺跡にはない、何か意味があると考えます。