ヘッダー画像
大型建物は何のために
弥生人はどうして大型建物を建てたのか
弥生時代になり水稲栽培を始め、共同作業が必要なため集落が生まれ、それに伴い大きなムラを形成するようになり、収穫した穀物を蓄える倉庫が作られた、と言われています。またムラで団結を維持するため、共同のまつりを行うようになりました。
このような生活スタイルの変化に対応して、多くの人々が集まれる大きな建物も必要となってきました。
縄文時代にも三内丸山遺跡のように定住し大型建物を建てた人たちがいましたが、収穫物の増加と食料として栗の栽培をしていたので、弥生の米作りと同じような位置付けです。
後ほど各地の時期別(弥生前期、中期、後期)大型建物の様子を述べますが、弥生時代前期の大型建物を見ることにより、当初の目的が推測できます。

【多柱建物】

弥生時代前期では、九州の江辻遺跡では多柱の大型建物と梁間一間×桁行4〜5間の細長い建物が複数棟が見られます。四国の田村遺跡でも多柱の掘立柱建物が複数棟建っていました。近畿でも若江北遺跡で、同じような大きさと構造の多柱建物が見つかっています。
江辻遺跡も田村遺跡もこれらの建物は、居住用の竪穴建物と同じ空間に存在しており、集落の中に公共の大型建物が造られたと見なされられます。
用途ですが、江辻遺跡の梁間一間×桁行4〜5間の細長い建物は倉庫とされています。
中期以降も梁間一間の細長い大型建物が多く見られるのですが、なぜこのように細長い倉庫を建てたのでしょうか?
朝鮮半島の弥生時代前期に相当する無文土器時代に同じような細長い建物が見つかっています。
恐らく稲作文化とともに穀藏として伝わって来たのでしょう。
江辻遺跡では、倉庫とは別に屋内棟持柱を持つ約60uの大型建物が見つかっています。これは共用の建物として集会や祭祀などに用いられたのでしょう。
出現期の大型建物
出現期の大型建物の様子

【独立棟持柱建物】

弥生前期に近畿の氏の松遺跡で片側だけの棟持柱建物が見つかっています。
この建物については、独立棟持柱建物の早期の事例とする見解と否定する見解があります。倒れかかった建物を支えるために後から支柱を取り付けたとも考えられ、このホームページでは「その他建物」としています。
縄文時代にも、柱穴の配置を見ると「独立棟持柱建物」と考えられる遺構がいくつも見つかっており、弥生時代特有の建物形式とは言えません。
しかし、中期前半になると、近畿や四国で独立棟持柱建物が見られるようになり、中期後半から後期にかけて棟数が増えます。とは言え掘立柱建物全体から見れば少数派です。
では何のために独立棟持柱を持つ建物を建てたのでしょうか?
一つには、大きな建物の場合、長い棟木の両端をしっかり支える目的で独立した棟持柱を設けた、という見方です。
このようなケースもあったのでしょうが、側柱の太さや本数などを考えると、棟木の支持が主な目的とは考えられない建物が多いのです。また、小型の掘立柱建物には不要と思える独立棟持柱を取り付ける例がかなり多く見られます。
これらの事実から判断すると「独立棟持柱」があること自体に意味がありそうです。
後述しますが、この意味として、独立棟持柱=祭殿のシンボルという見方が出てきます(宮本長二郎さん)。

【大型建物の集落内配置から見た性格】

集落内で、大型建物が竪穴建物や小型倉庫の掘立柱建物あるいは墓域とどのような位置関係にあるのか、という観点から建物の用途が考古学者の間で議論されています。
竪穴建物や小型の掘立柱建物のある日常生活の場(日常空間)と中・大型の掘立柱建物が特別な用途で使われる場(非日常空間)の位置関係を見ています。
弥生前期の建物数は少ないのですが、両空間が混在して集落内にありました。
弥生中期後半になると、建物はより大型化していき、日常空間から離れた場所に建てられるケースが多くなり、周囲に区画を設ける例が見られるようになります。
中期後半頃からは身分格差が生じ、住居の大きさに差異が現れ、権力者は大型の建物を一般住民からは離れた場所に建てるようになります。
祭祀空間も神聖性を得るために日常空間とは離れたところに造られるようです。
古墳時代に入ると豪族が溝や柵で囲われた区画に居館を構えるようになります。
このように集落内の大型建物の位置、墓域との関係、区画の有無などから建物の性格を読み解いていけます。

【大型建物の用途】

では、具体的にどのような用途に大型建物が使われたと考えられているのか諸説を見てみます。
@集会場、共同作業場
A穀物蔵、共同農具倉庫
B埋葬儀礼、もがり
C穀霊祭祀(祭殿、付随施設)、豊穣儀礼
D祖霊祭祀(祭殿、付随施設)
E神霊祭祀(拝殿、付随施設)
F首長居館
独立棟持柱建物は、祭祀の建物と見られるのでB〜Eと考えられています。Fの首長居館という説もあります。また、季節によってA穀蔵とC穀霊祭祀を使い分けたという説もあります。
北九州では墓前に大型建物が建てられている事例があり、祖霊祭祀の場とされています。
これらの用途は一義的に決められるものではなく、時代・地域によって変わっていったものでしょう。
独立棟持柱建物の用途 神殿か? 祭殿か?
大型建物の柱穴が発掘されたとき、古代建築の専門家が、土器や銅鐸、鏡などに描かれた建物の図を参考にして、建物の復元案を作成します。でも、複数の専門家が同じ復元案を出すとは限りません。
独立棟持柱建物に関しては、建築史の専門家である宮本長二郎さんが切妻方式で破風を伸ばした神社と思える復元案を提示し、広く用いられています。
同氏は伊勢神宮の神宮本殿形式の成立過程を縄文時代〜弥生時代の独立棟持柱建物に注目して研究しています。弥生時代、高床式建物は米倉として普及するが、独立棟持柱は祭殿建築を象徴するものとして、これらの建物を「祭殿」と見做せるとし、異論があるものの定着しているようです。
廣瀬和雄さんがこの建物は「神殿である」という説を提示し、独立棟持柱建物の特異性が認識されるようになったのです。
これらの説に対し、歴史学者も含め、「神の概念」に対する批判も出されています。また、祭場としての性格を認めながらも、歴史的な根拠・起源を求める意見があります。
このホームページでは守山市教育委員会や指導、助言を頂いている考古学者の考え方に準拠して「祭殿」という使い方をしています。

近江の独立棟持柱建物について「祭殿なのか?」、詳しく分析検討した結果を「意見の広場」にまとめています。
  こちらからご覧ください  ⇒ 「近江の独立棟持柱建物が祭殿か?」

mae top tugi