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** 近江の大型建物のスライドショー **
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近江の大型建物のここが凄い!
このホームページでは建物に関する専門的な言葉が多く出てきます。
弥生時代の建物はどのような形状や構造で、どのように使ったのか、部材の名称など、の予備知識がないと分かり辛いかもしれません。
建物の基本知識と時代背景を、次の章「知っておきたい基礎知識」で解説しているので、そちらを先に読んで頂くと、理解の手助けになると思います。
大型建物の棟数がとても多い
「大型建物」の定義は後で述べますが、考古学研究者が「大型建物」として扱っている、大きくて特別な建物の出土棟数が、近江ではとても多いのです。
ここでは「大型建物」を独立棟持柱建物と多柱掘立柱建物の2種類に分けて考察しています。
(柱:「独立棟持柱付き掘立柱建物」が正しい表現ですが、通称「独立棟持柱建物」と呼ばれています)

【独立棟持柱建物】  近江が一番

独立棟持柱建物は九州ではほとんど見つかっておらす、近畿〜東海で多く見つかっています。
池上曾根遺跡の超大型独立棟持柱建物が有名ですが、近江では大型の独立棟持柱建物の出土棟数が群を抜いて多く他の遺跡を圧倒しています。
府県別独立棟持柱建物の規模
府県別独立棟持柱建物の規模(総面積)
(図作成:田口一宏)
独立棟持柱建物

独立棟持柱建物
(イラスト:中井純子)

【多柱掘立柱建物】  近江は二番

考古学的に「多柱掘立柱建物」という定義はされていませんが、ここでは便宜上、独立棟持柱建物以外の大きなサイズで多数の柱を用いた掘立柱建物として扱います。
建物のサイズで超大型、大型などの定義は後ほどしますが、多柱掘立柱建物は北九州で圧倒的に多く規模も超大型の建物となっています。近江には北九州ほどの超大型の多柱掘立柱建物はないのですが、大型の建物が北九州に次いで多く見つかっています。
府県別多柱掘立柱建物の規模
府県別多柱掘立柱建物の規模(総面積)
(図作成:田口一宏)
多柱掘立柱建物

多柱掘立柱建物
(イラスト:田口一宏)

他では見られぬ特異な建物配列

【方位をそろえて多数の大型建物を配列する】

下之郷遺跡配列
下之郷遺跡中心部の建物配置
(出典:守山市発掘調査報告書)
弥生時代の建物配置は規則性がなくまちまちのケースが多く、あっても数棟の建物を並列や直交して並べる例が見られるれる程度です。各地の発掘調査の遺構図を見ても、広範囲で多数の建物が方位を合わせて並んでいるのはそれほど多くありません。大型建物に限るとほとんどありません。
弥生時代中期の滋賀県下之郷遺跡では、100m範囲で10棟を超える大型建物が方位を揃えて(同一方向や直交)整然と並んでいます。そのような建物が二群あります。そのいずれもが40u前後の大型掘建柱建物で、当時としては壮観な眺めであったと想像されます。大規模集落としての建物配置に計画性が見られ、この時代ではあまり例を見ません。
(注:そもそも40uクラスの掘立柱建物が複数棟ある遺跡は多くない)

【円形と方形の建物配列】

伊勢遺跡配列
伊勢遺跡中心部の建物配置
(守山市発掘調査報告書より作成)
弥生時代後期の滋賀県伊勢遺跡でも、下之郷遺跡のように大型建物が集中して立ち並んでいました。
建物配列は、中央部は80uを超える総柱建物と50u前後の掘立柱建物、小型の掘立柱建物が方形に並び、周囲には柵で方形区画が設けています。建物の軸は正北を向いており、方位を意識して配置しています。
周辺には、直径約220mの円周上に位置するように40uクラスの大型の独立棟持柱建物が配置してあります。位置だけではなく、建物が中央に向くように配置され、しかも等間隔となっています。
このような建物の円形と方形の配列は類例を見ません。古代中国の建物配列との関連性を示唆する研究者もいます。
種々の大型建物だけで構成された遺跡
弥生集落には住居用の竪穴建物や小型の掘立柱倉庫などとともに大型建物が存在する例があります。集落内での大型建物の位置を見ていると、住居群の中に建っていたり、住居群から離れたところに位置したりと様々ですが、集落としては竪穴住居群や小型倉庫群などと少数の大型建物で構成されています。
下之郷遺跡は東西330m、南北260mの3重の環濠に囲まれた集落ですが、前述のように大型の掘立柱建物と、他の遺跡ではほとんど見られない円形壁立建物が多数立ち並んでいました。その一方、一般的な竪穴建物や小型の掘立柱建物は見つかっていません。
現代の社会で言うと、戸建ての家屋がなくて高層ビルだけが整然と立ち並ぶ商業地区のような景観です。
例えてみると大阪の中之島の商業地区のような感じです。
伊勢遺跡も数百mの範囲で、大型掘立柱建物と独立棟持柱建物のみが立ち並んでおり、居住用の竪穴建物はなく、これも他では見られぬ建物構成です。
卑弥呼の宮殿(魏志倭人伝)の原風景
伊勢遺跡 方形区画
伊勢遺跡 方形区画の建物構成
(守山市発掘調査報告書より作成)
中国の魏志倭人伝には、卑弥呼が住んでいた場所を「宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す」と記述しています。
ここに記された建物構成が見つかっている遺跡としては、佐賀県吉野ケ里遺跡や上記の伊勢遺跡が挙げられます。
吉野ケ里遺跡の北内郭や伊勢遺跡の方形区画の様子は、魏志倭人伝の記述と重なる構成となっており、当時の「王」が祭祀を行ったり住んでいた場所と言えます。
しかしこれらの遺跡は、卑弥呼政権(古墳時代初頭)の少し前の時代に当たります。
伊勢遺跡の時代は卑弥呼政権誕生の前夜ともいえる時期なので、卑弥呼の宮殿の原風景がここにあると言えるでしょう。
後述しますが、両遺跡の建物構成と配置を比べると、個人的には、伊勢遺跡の方が立派で整っており、「王」の居所にふさわしいと感じます。
予期せぬ建築技術が使われていた伊勢遺跡
円周上に大型建物が配置されているすぐ外側で、伊勢遺跡初期の超大型の屋内棟持柱付き竪穴建物が発見されました。その規模は、方形竪穴建物としては弥生時代後期では国内最大級です。驚くのはその規模ではなく、当時としては想定されていない最先端の建築技術が使われていたことです。

【日本最古の焼きレンガ】

伊勢遺跡の焼きレンガ
伊勢遺跡の焼きレンガ
(写真:守山市教育委員会)
建物の四周の壁の基礎に粘土を焼き固めた古代のレンガ「せん」(大きさ40cm×30cm、厚さ8〜13cm)が並べてありました。中国では漢代に宮殿建築に「せん」と呼ばれるレンガが使われていましたが、レンガの製造技術が伝わっていた可能性があります。
これまで日本では、8世紀に奈良の寺院で焼レンガが初めて使われたと言われており、伊勢遺跡のレンガはこれをはるかにさかのぼるものとなります。

【中国に起源をもつ焼床(やきどこ)】

この建物の床には、約30cmの土をきれいな粘土に入れ替え、叩きしめています。さらに精良な粘土を8cm張ったうえで、表面が赤く発色するほど焼いて仕上げていました。地下からの湿気を防ぐのが目的で、恐らくここを住まいとした王の快適な生活環境を得るためだったと考えられています。
このような建築技術は類例がなく、しいて挙げれば中国や朝鮮半島の竪穴住居の床や壁に用いられた「紅焼土(こうしょうど)」と呼ばれる建築技術に似ています。
伊勢遺跡の大型竪穴建物は東アジアの建築技術の流れを汲む可能性があります。
心柱の存在−伊勢神宮に引き継がれた?
独立棟持柱建物の心柱
独立棟持柱建物の心柱
(写真:守山市教育委員会)
伊勢遺跡の円周上の独立棟持柱建物には、中央に1個小さな柱跡が認められます。掘立柱建物で建物内部に屋内棟持柱が見られるものがたまにあり、伊勢遺跡でも屋内棟持柱という見方もあります。
建物側面の側柱(がわはしら)に比べると、半分ほどの太さで、柱穴も浅くなっています。このため、棟木を支える屋内棟持柱ではなく、伊勢神宮に見られる「心柱」と同様、神聖性を表す象徴的な柱ではないかと考えられます。
むしろこの心柱が後世の伊勢神宮に引き継がれたのではない でしょうか?
歴史的意義
弥生遺跡の中での位置づけ
多数の大型建物だけで構成されている、弥生中期の下之郷遺跡、弥生後期の伊勢遺跡、近江の中でも特異な遺跡です(伊勢遺跡は人の気配がないので集落とは言えないのですが・・・)

【下之郷遺跡】

弥生中期、「漢書地理志」によれば100のクニがあった時代です。大阪には池上曾根遺跡、奈良には唐古・鍵遺跡の巨大環濠集落がありました。近江のびわ湖周辺は稲作に適しており、多くの弥生遺跡があるのですが、下之郷遺跡のような大型建物だけが立ち並ぶ遺跡はほかにありません。
このことから、下之郷遺跡は100のクニの一つである近江のクニを代表する大拠点集落であったと推定されます。
同時期の服部遺跡には数百もの大きな方形周溝墓が築かれており、この地にはそれだけの労力と財力があったことの証(あかし)となります。すなわち、100のクニの中でも大いに栄えたのが近江で、その中心となる集落が下之郷遺跡であったと言えます。
この繁栄が、弥生後期に伊勢遺跡を生み出す力の源泉になったようです。

【伊勢遺跡】

弥生中期に栄えた近畿の巨大環濠集落も中期末には衰退し、後期には小規模な集落ばかりとなります。 
そのような時期に突如として現れるのが伊勢遺跡です。大きな独立棟持柱建物は祭殿とみなされており、建物周辺には生活の気配はなく、伊勢遺跡は強大な祭祀空間と言えます。
魏志倭人伝によれば、このころは30のクニにまとまる直前の時代です。
伊勢遺跡は30のクニの一つというより、近江だけではなく、当時のクニの範囲を超えて広く近畿圏の宗教的な中核施設であった可能性があります。大岩山の多数の銅鐸を考えあわせれば、銅鐸祭祀圏の中核施設とも言えます。
弥生都市?

【弥生都市論】

歴史の流れの中で集落の形を考えてみたいと思います。
稲作が始まって人々は定住し、竪穴住居に住み小さな掘立柱建物を穀物蔵としていました。その中に一回り大きな掘建柱建物があって皆が集う共通の場としていました。これが一般的な弥生時代の集落風景で、牧歌的な農村としてのイメージです。
ところが、吉野ケ里遺跡や池上曾根遺跡、唐古・鍵遺跡などの巨大環濠集落が発見されると、その中には大型建物、祭祀空間や権力者の居所、いろいろな手工業の場があったことが明らかになりました。
このような都市的な要素を内在し、住んでいる人口も多かったでしょう。それでこのような集落を「弥生都市」と呼ぶ考え方が出てきました(森浩一さん、都出比呂志さん、廣瀬和雄さんなど)。ただ、「都市」の定義については様々な意見があって必ずしも共通の概念にはなっていないようです。
一次産業を主体とする集落ではなく、二次産業、三次産業に従事する人が主体となる大規模集落を「都市」と呼ぶ説(武末純一さん)もあります。
上の「弥生都市」の概念で下之郷遺跡、伊勢遺跡を見てみます。

【下之郷遺跡】

3重の環濠内部には大型建物ばかりが整然と並んでいて、一般的な竪穴住居や小型の掘立柱穀物蔵が見当たりません。また、手工業が行われていた痕跡もありません。上の「弥生都市」論には該当しません。
でも人の生活の痕跡は豊かで大勢の人がおり、戦いの痕跡(戦争ではなく小競り合い?)もあり、なにか大切なものを護っていたようです。
東南アジア系の独立棟持柱建物や中国・朝鮮系の円形壁立建物がたくさんあり、南方から来たとしか思えない呪術的なココヤシの祭器を考え合わせると、国際的な流通センターがあったのではないかという見方(当NPO高谷好一さん)があります。
武末さんの説に従うと「三次産業弥生都市」になるのでしょうか。

【伊勢遺跡】

環濠はありませんが、溝や自然流路に囲まれた特定区域に、方形区画内の建物群と円周上に配置された大型祭殿群があります。
ここにも竪穴住居や穀物蔵はなく、人の生活の気配もありません。(注:大型建物のある特定区画外には人々の生活の痕跡や豊富な遺物があるものの、特定区域は神聖な場所として近づかなかった)
人がいた場所の発掘は十分ではないのですが、手工業の痕跡もありません。
すなわち、一次産業、二次産業、三次産業のいずれにも該当せず、巨大な祭祀空間だけがあった遺跡です。例えてみると、観光客のいない伊勢神宮エリアのようです。

弥生集落の姿を論じる上で、下之郷遺跡、伊勢遺跡共にユニークで問題となる遺跡です。

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